人と接する、人のためになる介護の仕事に興味があり、やってみたいと思っていました
小林 新 さん
- 勤務施設
- グループホームよろこび(いわき市)
- 就職時期
- 令和元年5月
- 取材時期
- 令和2年12月
Chapter.01
日本語教師として中国へ
新潟県上越地方の出身です。高校を卒業したあと地元で就職しましたが、20代半ばで「もっと自分の世界を広げたい、もっと勉強がしたい」と思うようになり、仕事を辞めて関西の大学へ入学しました。大学では文学部で東洋史学(中国を中心とする東アジアの歴史や文化を研究対象とする学問)を専攻していました。
在学中に中国の大学に留学したことや、関西に住む中国人に日本語を教えるという経験をしたことで、中国に行って日本語教師として仕事をしたいと思うようになりました。それから大学の授業と並行して日本語教師になるための勉強を始め、1年かけて資格を取得しました。そして30歳のときに大学を卒業して中国に渡り、日本語教師としての仕事がスタートしました。
Chapter.02
東日本大震災の時に感じた衝撃と無力感
中国で日本語教師として働いていた平成23年(2011年)3月、日本では東日本大震災が起きました。あの日は普段通りに仕事をしていましたが、職場の同僚から「日本で大きい地震があったらしい」と聞きました。ただその時はあれほどの大きな被害があったことは知らず、仕事帰りのバスの中でテレビモニターに映し出された津波の映像を見てはじめて被害の甚大さを知り大きな衝撃を受けました。そして自分は何もできず無力感を感じていましたが、いずれ日本に帰ったときは東日本大震災と原発事故による被害が大きかった福島県で何か少しでも役に立つことができればいいなと思っていました。
Chapter.03
帰国後に出会った介護の仕事
東日本大震災後も中国で日本語教師を続けていましたが、年齢も40代半ばを過ぎ、これからの人生をどうするか考えたことがきっかけで日本に戻ることを決意しました。
平成31年(2019年)4月に中国から新潟県の実家に戻り新たな仕事を探しはじめましたが、東日本大震災があったときの被災地に対する思いも強く残っていて福島県で働きたいと考えていました。また、長年続けてきた日本語教師という仕事は「人と接する仕事」であり、「何か人のためになる仕事」であったと思います。そんな、人と接することや誰かのためになる仕事という意味では、日本語教師も介護の仕事も共通しているという気がしていました。介護に関する資格も経験もありませんでしたが、人と接する、人のためになる介護の仕事にも興味があり、やってみたいと思っていました。
インターネットの求人サイトで、特に震災の被害が大きかった福島県太平洋沿岸部の地域で介護の仕事を探していたところ、現在働いている「グループホームよろこび」の求人情報に出会いました。そのあとすぐに連絡をとり施設見学や採用面接を受け、令和元年(2019年)5月1日、まさに令和の始まりとともに「グループホームよろこび」で働くこととなりました。
Chapter.04
介護の仕事を始めて感じたこと
私が働いているグループホームは認知症の高齢者が生活するための施設です。現在18名の利用者さんが1階と2階に分かれて生活しており、各フロアの担当職員が介護サービスを提供しています。勤務時間は交代制で早番や夜勤など4つのパターンがあります。勤務時間により仕事の内容も変わってきますが、昼前から夕方にかけて勤務するシフトの時は昼食と夕食を作ることになっています。時間内に調理することがとても重要で、いつも決まった時間に食事が提供できるよう日々奮闘しています。
この施設では、利用者さんを支援するうえで職員が守るべきことを「介護の基本理念」として掲げています。理念は『拘束のない利用者本位の介護サービスの提供』、『個人の意思の尊重』、『利用者の立場に立った介護サービスの提供』、『目配り、気配りのある介護』の4つがあり、職員はこの理念を日々確認しながら介護サービスを提供しています。
認知症の症状がある方でも感情はとても豊かです。一緒に行事を楽しんだり、食事を作ったり、お風呂に入れば「気持ちいいね」と会話をするなど、利用者さんとの交流がとても楽しくやりがいを感じます。こんな時にやはり「介護の仕事は、人と接することが好きな人に向いているなぁ」と思います。
Chapter.05
専門性を身につけるために
グループホームに就職するまで介護の資格も経験もありませんでしたが、いま、働きながら介護職員初任者研修を受講して介護に関する基礎的な知識や技術を学んでいます。
職場内でも月1回の勉強会があり、認知症に関する理解を深めてより良いサービスが提供できるよう勉強しています。これからもっと経験を積んで、将来的には介護福祉士を取得したいと思っています。